ないものねだいありー

気づけば中堅社会人になった、30代中盤社会人の内なる思考をこぼしていきます。読書メモ多め。グロービスMBA修了。

2017/1/4 年が明けました~昨年の振り返り編

あけましておめでとうございます。あれよあれよという間に2016年が終わり、2017年になりました。

こうやって机に向かってブログを書くのも久しぶり。遅ればせながら、昨年の棚卸と今年の目標を立てることをしようと思う。

 

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【2016年の振り返り】

2016年のイベントを整理すると、ざっくりと仕事・音楽・GLOBIS・読書・家庭の5カテゴリに分けられそう(粒度がバラバラなのは気にしない)。

手帳を見ながら振り返ってみると、えーそれも今年だったの?という感じを受けるイベントがちらほらと・・・それだけ今年は中身の濃い1年だったかな、と我ながら思う。

時系列で振り返ると、圧倒的に4月以降の密度が濃い1年だった・・・なにせプレゼン中に倒れたくらいだから。中でも大きかったものはGLOBISに入学したことと、社内ベンチャーに挑戦したことの二つ。それに、バンド二つが交互に乗っかってきた感じだったな。本業の仕事は正直、二の次だった。笑

新しい世界に足を踏み入れ、色々と挑戦し、見えている世界が広がった一方で、迷いと悩みも深まった1年だった。

 

年初のブログを振り返ってみると、目標を3つ掲げていた。それがこちら。

①:継続したインプットをしつづける
②:プロセスを高速回転型へ変容する
③:アウトプットの目標を達成する

 

この3つの目標をふまえて2016年を評価してみる。

 

2016年で良かったのは、多くの挑戦する機会に踏み出すことができたこと。

筆頭はやはり社内ベンチャー。結果は実らずだったけど、ゼロからサービスを考えたり、経営者目線でビジネスモデルを考えたり、少なくとも普通に仕事をしているだけでは絶対にできない経験をすることができた。そしてGLOBISで学んできたことを使うことができた実質的に初めての機会であり、学びが学びでとどまっていることを痛感した機会でもあった。

顧客の視点に立って顧客が喜ぶものを考える、経営者の目線で事業を評価する。どちらもまだまだ、頭で分かっているだけじゃなくて体で覚えないといけないと思うけど、これにはきっともっと経験が必要だろうな。

 

それから膨大なアクティビティの合間を縫って、インプットを意識的にし続けられたこと。

例えば読書は結局目標未達だった(年間60冊)けど、年初に想定できなかった外部要因(=社内ベンチャー)を考えると、まあまあ健闘したほうなんじゃないかと思う。(読めていた月の)平均ペースは7~8冊/月。年100冊にはちょっと届かないペースではあるけれど、前年比は当然ながら非常に良かった。

それからこちらも停滞した時期はあったけれど、GLOBISのクラス以外の機会を積極的に活用したこと。某委員や某コンペはじめ、麹町にはそれなりに頻繁に行っていた。結構しんどかったけど、何だかんだこういう積み重ねで学びは深まっていったと思う。

 

一方振り返って物足りないと思うのは、まずは具体的な「成果」。社内ベンチャーと某コンペ、どちらも結果は実らずというのは、非常に悔しい1年になった。また、続けようと思っていた習慣にムラがあり、一時的にサボってしまったこととかもあった。

実力不足とか目標ミスとかいうとそうだったのかもしれないけれど、それ以上に、どこかで本気度が足りなかったのかな、と思う。もっと、自分が成功する姿、達成する姿を強くイメージして、言葉に出して取り組むべきだった・・・そうであれば、きっともっと取っていた行動が変わっていたんじゃないかな、と思う。これが続くと、「負け癖」「サボり癖」がついてしまいそうなので、気を付けないと。

 

そして意外とこれが肝なんじゃないかと思うのが、体力不足。寝不足がたたっていたとはいえ一度倒れてしまったし、倒れなくても日中の睡魔の撃退がどうにもできない・・・

今の部署に異動してからデスクワークになり、仕事中に身体を動かす機会が減ったことで、身体の鈍りを正直感じる。そろそろ「若い」とは言えない年になってくるし、資本たる身体を磨く努力もしなければ。

 

あともう一つ書くと、「捨てること」ができなかったかな・・・足し算で色々とやりたいことを増やしていって、引き算ができなかった。

ただこれに関しては、果たして引き算をする必要があるほど果たして忙しいのか?という疑問は少しある^^;自分よりもっと頑張っている人いるし、ここはもっと詰め込んでもいいかなーとは思う。

 

振り返るとこんな感じ。

今年の目標は、次の記事に。

12/16 今日の学び

課題に対し「なぜ?」を突き詰めることによって、「課題」と「課題を抱えている人の想い」の距離が離れていく。

自分が自分で抱えている課題に対して「なぜ?」を突き詰めて考えるのはまだよい。しかし、人の課題(と見える現象)に対してコンサルする場合は、とにかくその課題が張本人から離れていかないように気を付けながらコンサルする、という視点が重要である。

例えば、AorBと聴いたのに、Cと返事が返ってくるときは、論理力のなさではなく、そもそも問いたい問いが他にある可能性があり得るので注意が必要。

 

今日は濃い飲み会だった。

楽しかった!

12/9 論理展開の罠

藁人形論法って初めて聞いた。これやられると、すぐ切り返すの得意じゃない(相手が意識的、無意識的問わず)

この考え方知れただけ、よかった。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ストローマン

11/29 二度寝をしないということ

今朝は二度寝せずサクッと起きた。久しぶり…

朝ごはんもちゃんと食べられて、いいリズムで1日過ごせるとよいな。早起き…ってほどじゃないけど、三文の徳ということで。

11/28 巻き直し宣言

どんなにデキる人で、誰しも緩む時期はあるよね。そう思って。

大きな山を越えて、反動で動きが鈍くなるのも今日まで。気持ち切り替えて、また明日からがんばるぞ!

 

宣言でした。

10/16 読書メモ:お父さん、「葬式はいらない」って言わないで

54冊目。

お父さん、「葬式はいらない」って言わないで (小学館101新書)

お父さん、「葬式はいらない」って言わないで (小学館101新書)

 

 所要時間約1時間。

「お葬式不要論」が出始めた時代、その道の第一人者である橋爪氏が葬儀の持つ本質的な意義について記した本。第一人者でありながら、いやあるからこそ、「必要だ」という通り一遍の肯定論に落ち着くことなく、極めて中立的・本質的な視点から、葬儀の持つ意味と意義を考えようとしている良書。

 あとがきに記されていた著者の言葉が、その思慮深さを表しているように思う。

「葬儀とはそういうものじゃない」と決めつけることも、「だから葬式なんて要らない」と、すべて否定することにも違和感がある。遺された人の悲しみを受け止め、これからの人生を歩んでいく力をもらう、儀式としての葬儀をないがしろにしてはいけないからだ。

 

形態が形式的だ、それぞれの儀式の意義が分からない、金銭面が不明瞭である、など、とかくハード面がやり玉にあがる葬儀だが、そもそも葬儀とは、遺族が悲嘆から立ち直るための最初のプロセスとして重要な意味を持っており、形がどうとか金額がどうとかいうハードの視点から議論をスタートさせること自体、本質を外してしまう、というのが著者の主張。

愛する人を亡くして悲しみに暮れている人の心の問題をどう解消していくか、というところから出発し、おそらく先人たちは様々な形で救いを求めてきたのだろう。それが、今なお脈々と続いている、お葬式の形式であり、文化である。

 

ただ経営と同じように、文化も外部環境の変化を受ける。

昔は死が身近にあり、近隣住民が助け合いながら葬儀を行ってきた。幼いころから人の死に触れる機会があり、死は生の隣にあることが当たり前と考えられていた時代。そうして葬儀に主体的に参加することで、遺族は故人の死を受け入れ、悲しみを癒してきた。

ところが今は、高齢化&核家族化で、地域コミュニティも希薄化し、親の葬儀まで30年間近親者の死に立ち会ったことがないという人が増えている時代。葬儀は葬儀会社が行って、儀式そのものが人任せになるから、意味が分からず金もかかるとなると、まあそこにありがたみを感じなくなるのも分かるといえば分かる。ただそれで、本来の役割である悲嘆からの立ち直りというところは解決できるのか?

 

葬儀は誰のためのものか?という問いに答えるのは難しい。これは、亡くなった人のためでもあり、遺族のためのものでもあり、生前の関係者のためのものでもある。

ただ、葬儀の役割は何か?という問いに対しては、明確に「遺族を悲嘆から立ち直るきっかけとなること」が挙げられるだろう。葬儀の問題は、本質的に"こころ"の問題である、極めてソフトなものなのだ。

 

普通に暮らしていたら全く考えることのない、こういう問題を考えることができる、最近の日々は大変だけど有意義なのだろう。

がんばる、がんばる。